※この物語は事実をモチーフにしたフィクションです。
1964年8月27日。
ウォルトが情熱を注いだ『メリー・ポピンズ』はプレミア上映当日を迎えた。
ウォルトは迷った末、ロンドンへと帰ったトラヴァースにプレミアの招待は出さず、ロンドンでのプレミアに招待すればいいと考えていた。
しかし、そこへトラヴァースが現れ、「私に招待状が届いてないけど、アメリカの郵便局のミスよね?」とおどけて笑ってみせたので、ウォルトは急遽彼女のホテルに招待状を届けさせた。
私はウォルトへの挨拶を済ませると、いつものように出かけた。
確かにその日はウォルトだけでなく私にとっても重要な日であった。
自分の存在にケリをつける、そのつもりだったからだ。
ただ、その後に起こることについては何も予想できていなかった。
その日の夕方、IFAに到着した私は事務局の裏口で待っていたが、時間になっても待ち合わせの相手は来なかった。
待ちくたびれた私はちょこんとその場に座リ始めると、それからしばらくしないうちにヤツが現れた。
黒コートのそいつは私の口にハンカチを押し当てて来ようとしたが、その瞬間に指を二回パチンと鳴らして姿を隠した。
黒コートの動物がハッと怯んだ隙に事務所の裏で待機していたダックとコングが両腕を掴みにかかった。
ダック「私たちが後は引き受けます。マウスさんはプレミアに急いでください!」
私はダックとコングに後を任せると、急いで劇場へと向かった。
ウォルトとの約束の時間は既に過ぎており、私はヘトヘトになりながらもとにかく急いでいた。
ウォルトは私にぜひプレミアに立ち会ってほしいと話していた。
一体何を準備しているのだろう?
私が劇場に到着すると、辺りはザワついていた。
「ウォルトとロイがまだ来ていません!」
その後、ロイから連絡が入ったらしく、当日ウォルトがする予定だったインタビュー等々は脚本家のドン・ダグラディが代わりに引き受けることとなった。
集まった人々はウォルトとロイがいないことに違和感を覚えながらも、『メリー・ポピンズ』のプレミア上映を楽しんだ。
作品の評価は上々で、ディズニーにあまり好印象を抱いていないであろう新聞記者ですらもその出来を褒め称えた。
私も『メリー・ポピンズ』をこっそりと鑑賞したが、とても集中できず、内容は頭に入ってこなかった。
そして結局、私がウォルトと再び会うことはなかった。
その日のプレミアはお開きとなったが、ウォルトがその場に現れなかったことについての詳しい説明はなく、誰しもがモヤッとしたまま帰宅せざるを得なかった。
翌日、スタジオでは徹底した情報統制が行われ、重役を集めた会議が開かれた。
バーバンクのスタジオを知り尽くした私ですらもどのような会議が行われたかは知ることができず、彼らの周りをこっそりと嗅ぎ回って断片的な情報を得ることしかできなかった。
会議が終わると、重役たちは次々と部屋を出ていった。
一人部屋に残されたロイはウォルトの写真を眺めて大きくため息をついた。
一瞬、私の気配に気がついたような素振りを見せたが、特に何も言わずに部屋から出ていった。
私はウォルトに何が起きたのか知ることはできなかった。
結局、あの時何が起こっていたのかを知っていたのはその場にいたロイだけであった。
プレミア翌日の晩、ロイは当初、ウォルト・ディズニー・プロダクションズ名義でウォルト・ディズニーが失踪したことを発表した。
それから二週間ほどした後、「ウォルトはとても衰弱した状態で発見されたが、間もなく息を引き取った」という発表がなされ、新聞やテレビはディズニー公式の発表として文字通り報道した。
「現在の医療技術では施術が困難と判断されたことから、亡くなる直前に本人の希望で冷凍保存されている」という報道もされたが、私はさすがに無理のある嘘だろうと判断せざるを得なかった。
ウォルトの最期についてはこの短い一文だけしか明かされていなかったことから、愉快犯的にこの発表には尾ひれが付き、さらにバリエーション豊かな噂や都市伝説を生むこととなった。
ロイはウォルトの最期を謎めいたものにしたかったのだろうか。
そしてウォルトの知らないところで、彼がとても欲しがっていたアカデミー作品賞ノミネートの栄誉を、『メリー・ポピンズ』は達成することとなった。
<つづく>
登場人物
◆マウス
物語の語り手。
ウォルトとだけ話すことができるネズミのイマジナリー・フレンド。
◆ウォルト・ディズニー
マウスのオーナーで、彼と話せる。
ミッキーマウスの生みの親で、アニメーションに革命を起こす。
◆ロイ・ディズニー
ウォルト・ディズニーの8歳年上の兄。
独創性のある弟を財政面で支える良き理解者。
◆ダック
マウスの友人である礼儀正しいアヒル。
クラレンス・ナッシュのイマジナリー・フレンド。
◆コング
IFAのボディガードを務めるゴリラ。オーナーはいない。
◆ドン・ダグラディ
ディズニー・スタジオの脚本家。
『メリー・ポピンズ』の脚本を担当する。
◆黒コートの動物
かつて暗い夜道でマウスを突然襲った謎の小動物。
マウスによってグリムホールドに閉じ込められ、脱出してからの行方は不明。
◆P・L・トラヴァース
『メリー・ポピンズ』の原作者。
ウォルトの映画化のオファーに難色を示す。
史実への招待
『メリー・ポピンズ』の脚本を担当したドン・ダグラディは短編アニメーションのレイアウト・アーティストとしてディズニーでのキャリアをスタートさせました。
初期の担当作品にはあの『総統の顔』もあったといいます。
1955年公開の『わんわん物語』では脚本にも挑戦。
実写映画では『四つの願い』の地下世界のデザインを担当を皮切りに、『ポリアンナ』『フラバー うっかり博士の大発明』『罠にかかったパパとママ』など様々な作品に携わりました。
1964年の『メリー・ポピンズ』でビル・ウォルシュと共に快挙を成し遂げた後、1970年にディズニーを退社しました。
1991年に亡くなりましたが、その後ディズニー・レジェンドが授与されました。