※この物語は事実をモチーフにしたフィクションです。
ウォルトはロンドンのチェルシーにあるトラヴァースの自宅へと向かった。
そして数日後、バーバンクのスタジオに戻ってきた彼はトラヴァースからようやく契約書にサインをもらったことを嬉々として告げた。
彼女、ヘレン・ゴフの父はトラヴァース・ゴフという名前の銀行家であった。
彼は空想好きで、仕事が上手くいかず酒浸りになりがちな時でも娘のヘレンに夢見ることの大切さを説いていた。
ヘレンは大好きな父のために、母に隠れて鮭を与えてしまい、遂にはアルコール中毒で倒れてしまう。
父が倒れて母も自暴自棄になった時、ヘレンと妹のもとを訪れたのは伯母のエリーだった。
エリーはメリー・ポピンズさながらにてきぱきと家事をこなし、一家に束の間の休息をもたらしたという。
ヘレンは作家となりペンネームに父親の名前を使うほど彼を尊敬しており、同時に彼の死の原因は自分にあると罪の意識を感じていた。
そこでウォルトは彼女の辛い過去に寄り添い、過去の苦しみを背負い続けるのはやめにして、新しいステップを踏み出そうと背中を押した。
『メリー・ポピンズ』を映画化するという娘たちとの約束は、いつしかヘレンの『バンクス氏』を救済する約束ともなっていた。
シャーマン兄弟にとっても『メリー・ポピンズ』は特別な映画となった。
ウォルトに頼まれてはよく仕事後のオフィスで『2ペンスを鳩に』を歌ったものであった。
技術面では時代の先取りも行い、実写とアニメの合成も『南部の唄』の頃よりも大きく向上していた。
1963年。
ニューヨーク万国博覧会まであと一年という頃、ディズニーはペプシからユニセフ用の展示も打診された。
設計から施工まで9ヶ月という短すぎる期間であったが、ウォルトはこの難題を信頼できるメンバーに任せた。
ウォルトは平和な世の中とは争いのない世界、すなわち憎しみを持たない純粋な子供たちの世界だと考え、世界中の子供たちが仲良く遊ぶ世界を巡るボートライド『イッツ・ア・スモールワールド』を作ることになった。
この世界共通の普遍的なテーマをどんな楽器でも演奏できる覚えやすい曲がほしい、とウォルトはシャーマン兄弟に依頼した。
コンセプトのデザインはメアリー・ブレア、衣装デザインはアリス・デイヴィスに依頼した。
1964年、ニューヨーク万国博覧会が幕を開けると、リンカーンだけは動作不良で一週間ほど公開が遅れたが、やがてディズニーが手掛けた4つのパビリオンはすべて人気アトラクションとなった。
中でも『イッツ・ア・スモールワールド』は一時間に1,500人もの人を楽しませることができる、アトラクションとしては破格の回転効率を誇っていた。
私がテーマソングの『小さな世界』を鼻歌で口ずさんでいると、ウォルトは私にTと書かれた小さなバッジをくれた。
そして、ウォルトは「もし君が困った時、そうだな……私ともなかなか会えなくなったらこれを持ってニューヨーク万博のイッツ・ア・スモールワールドに乗りなさい。きっと元気が出るよ」と笑った。
『メリー・ポピンズ』のプレミア前夜、ウォルトは私に「ぜひ明日のプレミアに来てほしいんだ」と誘った。
私は「今日は動物の仲間たちの集まりに顔を出さなくてはいけないんだ。でも夜のプレミアには間に合うから終わったらすぐに駆けつけるよ」と答えると、一応彼に自分の行き先を告げて出かけることにした。
ウォルト「ありがとう、マウス。いつも世話になってる君にはぜひとも見てほしいんだよ。」
マウス「あぁ。わかったよ。」
いつもと変わらないごく普通の夜であった。
動物の仲間たちの集まりというのは嘘で、本当は何者かからの呼び出しを受けたのである。
「貴方の存在についての話をしましょう。十三年ぶりにお会いできることを楽しみにしています。」
どこからか届けられた手紙にはその文言のみが不気味に記されていた。
手紙の内容から察するに、送り主は我々が「黒コートの動物」と呼んでいる者で間違いないだろう。
黒コートの動物と初めて出会ったのは1928年。
私が夜道を歩いていると、突然顔を隠した黒コートの動物に背後から襲撃を受け、通りすがりのパップに助けてもらった。
私がIFA事務局に被害届を出すと、事務局はグリムホールドの中に黒コートの動物を封印することに成功したが、問答無用で閉じ込めてしまったため、その正体はわからなかった。
1952年、私を倒しにやってきたムーアクイーンをグリムホールドに封じ込め、その代わりに黒コートの動物を解放した。
それ以来、黒コートの動物はどこかへ消え、どこで何をしているかはわからなかった。
奴は『メリー・ポピンズ』のプレミアという大事な日に接触してきて、何を企んでいるのか。
それに奴は私を襲撃した時「なんでお前じゃないとダメなんだ」と一言だけ呟いていた。
私自身の存在の疑問にとっても決着の日が近づいている。
<つづく>
登場人物
◆マウス
物語の語り手。
ウォルトとだけ話すことができるネズミのイマジナリー・フレンド。
◆ウォルト・ディズニー
マウスのオーナーで、彼と話せる。
ミッキーマウスの生みの親で、アニメーションに革命を起こす。
◆メアリー・ブレア
『イッツ・ア・スモールワールド』のデザイナー。
『ふしぎの国のアリス』『ピーター・パン』も担当。
◆アリス・デイヴィス
マーク・デイヴィスの妻。
『イッツ・ア・スモールワールド』の衣装デザイナー。
◆シャーマン兄弟
ディズニー・スタジオの作曲家。
『メリー・ポピンズ』『イッツ・ア・スモールワールド』を担当。
◆黒コートの動物
かつて暗い夜道でマウスを突然襲った謎の小動物。
マウスによってグリムホールドに閉じ込められ、脱出してからの行方は不明。
◆トラヴァース・ゴフ
P・L・トラヴァースの父親。
◆エリー
幼い頃のP・L・トラヴァースの前に現れた伯母。
◆P・L・トラヴァース
『メリー・ポピンズ』の原作者。
ウォルトの映画化のオファーに難色を示す。
史実への招待
『メリー・ポピンズ』完成までのディズニーと原作者側のやりとりは『ウォルト・ディズニーの約束』として映画化されています。
しかし映画史に残る逸話としては、主演女優のジュリー・アンドリュースの物語を避けて通ることもできないでしょう。
ジュリー・アンドリュースがウォルトから本作のオファーを受けたのは、映画版『マイ・フェア・レディ』の主演がオードリー・ヘップバーンに決まった後でした。
ブロードウェイ版『マイ・フェア・レディ』の初演を担当していたジュリーにとってこの役ははまり役でしたが、映画版のプロデューサーは絶対に失敗できないこの作品のキャスティングとして映画界で知名度の高いオードリーを選んだのでした。
『メリー・ポピンズ』のオファーを受けたジュリーは妊娠中でしたが、ウォルトは「待ちます」と回答しました。
その年度のアカデミー賞は『マイ・フェア・レディ』圧倒しましたが、主演女優賞はジュリーが獲得しました。
彼女はこの受賞について「同情票だったのではないかと思っている」とコメントしたそうです。
どちらもミュージカル映画の名作としていまも語り継がれていますが、他のキャスティングが実現した可能性もあると考えると複雑なものを感じます。