『骸骨の踊り』は、深夜の墓地を舞台に骸骨たちがグリーグ作曲の「小人の行進」に合わせて踊るというホラー風の作品。
音楽とアニメーションの融合はミッキーで経験済みでしたが、ウォルトの完璧主義はここでも遺憾無く発揮され、納得いくまで録り直しが行われました。
教会や墓地が映し出され、怪しげなフクロウや黒猫たちの様子が描かれます。そこへ墓地から4体のガイコツが登場し、踊り始めます。ガイコツたちはお互いの骨の身体を木琴のように使って演奏したり、陽気に動き回ります。やがて朝が来て…。
こうして作り上げた『骸骨の踊り』。しかし、『蒸気船ウィリー』の公開時に後押しをしてくれたパット・パワーズの反応は...。
「ガイコツはいいから、ネズミをもっと作ってくれ」
なんという悲しいお言葉でしょう。パワーズにとっては売り物になるかがすべて。ガイコツは要らない子呼ばわりされてしまったのです。
さて、『骸骨の踊り』がどれほどスベったかというとそんなことはありませんでした。ミッキーほどのヒットにはならなくとも、ミッキーに関心を持たなかったような層にも幅広くトーキーアニメの面白さを感じてもらえる機会となりました。
その後もアブ・アイワークスは精力的に『シリー・シンフォニー』を制作しますが、方向性の違いからウォルトと摩擦を生じるようになっていました。ウォルトはアニメをより良くするため、ミッキーで得た収益のほとんどをシリー・シンフォニーに費やしていました。そのため、スタッフの賃金も決して良いものではありませんでした。
そして、1930年1月。ウォルトの兄ロイはパワーズが怪しいと睨み始め、ウォルトに「契約内容をハッキリさせるべき」と提案しました。
どこかで聞いたような展開ですが、案の定パワーズはディズニーのスタジオとアニメーターを乗っ取ろうとしていました。ただし前回と違うのは、アブも引き抜こうとしていたこと。パワーズはディズニー作品の質の秘訣は作画担当のアブだと思っており、低賃金のアブにとっても美味しい話でした。
ウォルトはパワーズの条件に乗ってもスタジオの儲けがほとんど無いと判断したため、約10万ドルの手切れ金を支払い、パワーズとアブに別れを告げました。アブは新しいスタジオを作ってアニメ制作を続けますが、大したヒットはせず、ウォルトのアイデアマンとしての実力を思い知ることとなったのです。
一方、ディズニーは配給をコロンビア・ピクチャーズに変更して1930年から1932年までアニメ制作を行いましたが、大きなヒットには繋がりませんでした。コロンビアに契約内容の変更を頼むも失敗。ウォルトとロイは配給会社をユナイテッド・アーティスツに変更し、ここから新たな挑戦に臨むこととなるのです。