※この物語は事実をモチーフにしたフィクションです。
1934年のある晩のことだった。
「おい、ウォード。ウォルトが重要な会議を行うから、早めに夕飯を済ませて防音スタジオに集まってくれとのことだ」
「そうなのか?そんな話は聞いてないけどなぁ…。でも、食事ならハイペリオン通りの向かいの喫茶店で済ませてきたから大丈夫。」
「よろしく。確かに伝えたよ。」
ウォルトは私のもとへやってきて、「これからアニメーターたちに大事な話をする。長くなりそうだが、よかったら君も聞きに来てくれないか」と声を掛けた。
アニメーターたちはサウンドステージに立ったウォルトの前に半円状に椅子を並べると、彼が話し始めるのを待った。
私はアニメーターに気付かれないように、部屋の隅っこでおとなしくしていた。
「昔々、あるところに美しい姫がいた。姫といっても大人っぽすぎるわけでもなく、かといって幼すぎてもいけない。純粋で可憐な感じの娘なんだ。彼女は白雪姫と呼ばれていて、髪の色は……えーっと…まぁとにかく雪のように白い肌の持ち主なんだ。」
ウォルトは白雪姫の物語を話し始めた。
ウォルトはキャラクターのイメージや物語の状況説明は細やかだった。
彼の中でもイメージが固まりきっていない感じはあったが、彼の話す物語の情景は確かに目に浮かんできた。
ウォルトはひとりひとりのキャラクターを表情豊かに演じていた。
私は彼の姿を見て、新聞配達少年だった頃にサイレント映画版の『白雪姫』を夢中になって観たと話していたことを思い出した。
アニメーターたちの集中力も凄まじく、息を呑んでウォルトの話に聞き入っていた。
最後に白雪姫が王子とともに城へと去っていくと、ウォルトの世界は幕を下ろした。
白雪姫がキスで目を覚ますシーンには、感情移入して涙を流す者もいた。
しーんとした部屋の中でウォルトは皆に語りかけた。
「これが僕たちの最初の長編映画になるんだ…!」
ウォルトが最初の映画の題材として『白雪姫』を選んだのは、どんな観客の心にも響かせることのできる物語の普遍性はもちろん、主人公のラブストーリーや、脇を固めるコミカルリリーフのこびとたち、そして印象的な悪女といった役者が揃っていることも原因だった。
ウォルとはその翌日から、スタジオの廊下など至るところで白雪姫の話をするようになった。
私はもちろんウォルトの壮大な夢を応援したかったが、それだけの資金の余裕がスタジオにあるのかどうかは当然のごとく心配になった。
私と同じ考えの人が二人いた。
妻のリリーと兄のロイである。
時代は世界恐慌が未だ続いており、長編アニメーション映画という大きなテーマに今挑むのは得策なのか、というのがリリーの意見だった。
ロイの意見は銀行からそのような融資が受けられるのかという現実的なものだった。
兄の心配をよそに、弟は演出のことで頭が一杯になっていてそれどころではなかった。
長編映画は単純計算で短編映画10本分の長さになるため、作品に使用する絵の数もそれだけ必要となる。
ウォルトは本作に登場する人間のキャラクターたちにリアリティを求め、短編映画に登場するようなコミカルな人間ではなく、シリアスな人間のイラストを要求した。
白雪姫のデザインもなかなか定まらず、アニメーターから提出された案はどれもなかなかしっくり来なかった。
ウォルトは白雪姫のデザインにベティ・ブープのグリム・ナトウィックを起用したが、セクシー路線の白雪姫はウォルトのイメージにはそぐわなかった。
デザインに難航する中、ウォルトは人間のアニメーションをリアルに表現できるのかを試すため、人間の女性キャラクターを主人公にした短編映画を制作することになった。
こうして完成した『春の女神』は、お世辞にも良い出来とは言えなかった。
「ダメだな。これじゃフニャフニャしたゴムホース人形みたいだ。コメディとしては良いかもしれないけど、白雪姫はポパイのオリーブみたいなのじゃいけないんだよ」
技術不足は彼らにとってはさらなる高みを目指すためのステップに過ぎなかった。
人間キャラクターの表現以外にも、カメラワークのズームインやズームアウトなど遠近法の表現のためにマルチプレーン・カメラを導入し、テストのために撮影した『風車小屋のシンフォニー』がアカデミー賞を受賞するなど、シリー・シンフォニーは『白雪姫』の大切なステップとなっていた。
白雪姫の声のオーディションには、ハリウッド中の女優や歌手が参加した。
ウォルトはオーディション会場のマイクをウォルトの部屋のスピーカーに繋ぎ、ウォルトが顔を見ずに声だけで公平にオーディションできるようにした。
ウォルトは純朴な少女の声を出せる少女をオーディションで探し出そうとしていた。
何人ものオーディションを経て、ウォルトはある女性の声を聞いた瞬間に「これだ!」と叫んだ。
こうして、白雪姫はオペラ一家に育った18歳の少女アドリアナ・カセロッティに白羽の矢が立った。
<つづく>
登場人物
◆マウス
物語の語り手。
ウォルトとだけ話すことができるネズミのイマジナリー・フレンド。
◆ウォルト・ディズニー
マウスのオーナーで、彼と話せる。
ミッキーマウスの生みの親で、アニメーションに革命を起こす。
◆ロイ・ディズニー
ウォルト・ディズニーの8歳年上の兄。
独創性のある弟を財政面で支える良き理解者。
◆ウォード・キンボール
ディズニー・スタジオのアニメーター。
ウォルトと同じく鉄道好き。
◆リリアン・ディズニー
ウォルト・ディズニーの妻。
ミッキーマウスの名付け親でもある。
◆グリム・ナトウィック
ベティ・ブープのデザインで知られるアーティスト。
◆アドリアナ・カセロッティ
白雪姫の声を演じる少女。
史実への招待
世界初の長編カラーアニメーション映画として知られる『白雪姫』。
であれば、彼女もまた世界初の長編カラーアニメーション主演声優と言えるのではないでしょうか。
その彼女の名前はアドリアナ・カセロッティ。
MGMのコーラス・ガールとして働いていた彼女はオーディションで白雪姫の役を勝ち取り、この大役を成し遂げました。
当時はアニメーションの声優は裏方中の裏方で、名前が映画にクレジットされることはなく、この成功で次の仕事の機会を得られたわけではありませんでした。
尤も、白雪姫のイメージを大切にしていたウォルトが他作品への彼女の起用に難色を示したというエピソードも知られています。
彼女の白雪姫のキャリアは映画だけに留まらず、1991年にはファンタジーランドの願いの井戸のために歌を新録し、1994年にはディズニー・レジェンドに選ばれました。