ディズニー データベース 別館

「ディズニー データベース」(https://w.atwiki.jp/wrtb/)の別館です。日本の誰か一人にでも響けばOKな記事を書いていきます。

【連載】幻のねずみ #06『ウォルト・ビフォア・ミッキー(前編)』

f:id:disneydb23:20210123214933j:plain

※この物語は事実をモチーフにしたフィクションです。


1918年。

年齢を偽って第一次世界大戦赤十字の救急部隊に参加していた愛国心の強いウォルトは、一年間の任務を終え、フランスから帰国の途につくべく船に乗り込んでいた。

同じ境遇の若者たちは、帰国後の職探しに苦労することになっていたが、ウォルトには父親がシカゴで経営する安定したゼリー工場の職が待っていた。

しかし、ウォルトは子供の頃から好きなことを仕事にしたいと考えており、そのゼリー工場の仕事をきっぱりと断ってアーティストになろうと考えていた。

住み慣れたカンザスで兄たちとともに家を借りて暮らすことにしたウォルトに兄のロイは地元の商業デザイナーの会社であるペスメン=ルビン商業アートスタジオを紹介してくれた。

ウォルトとアブの出会いはまさにその会社であり、ウォルター・イライアス・ディズニーという本名の彼に「ウォルト・ディズニー」という名称を提案してくれたのもアブだった。

社交的なウォルトと内向的なアブは対照的な性格だったが、互いの優れた能力を敬い、仲良くなった。

年末の繁忙期が終わり、1920年にはウォルトとアブは二人で『アイワークス=ディズニー』という事業を始めることになった。

ウォルトの営業のおかげで事業は繁盛したが、一ヶ月後にウォルトはアブの薦めでカンザスシティ・スライド・カンパニーの求人に応募することとなり、アブもその会社に移籍することに。

ウォルトの最初の事業であるアイワークス=ディズニーは事実上消滅した。

カンザスシティ・スライド・カンパニーはカンザスシティ・フィルム・アド・カンパニーに改名し、映画館で上映するような簡単なアニメ広告を制作するようになった。



アブ「おつかれ、ウォルト。何か考えごとかい?」
ウォルト「やぁ、アブ。どうだい?今のアニメ広告の仕事には満足してるかい?」
アブ「あぁ。安定した収入も得られているし、不満はないよ。君は違うのかい?」
ウォルト「ジミーに教わった簡素なアニメもいいんだけどね。もっとアニメーションを突き詰めてみたいと思ってるんだよ」


ウォルトやアブの収入は安定しており、ちょっとした高級レストランの食事や上質な葉巻を楽しめるほどの稼ぎを挙げていた。

ウォルトは地元に次々とできた映画館に毎日通い、図書館でエドワード・マイブリッジの『人体動作の連続写真集』やカール・ラッツ『漫画映画』を借りてアニメーションの研究に没頭。

週末には納屋でアニメ作りに勤しんだ。

1921年、ウォルトの作品を気に入った地元のニューマン劇場の支配人ミルトン・フェルドに上映してもらえることになり、ウォルトはそうした作品をニューマン・ラフォグラムと名付け、一作目となる『カンザスシティ春の大掃除』を封切った。

ウォルトは地元でちょっとした有名人となり、手応えを感じていた。



そこへ事業が長続きしない父のイライアスがゼリー工場も倒産させてしまい、家族とともにウォルトたちのもとへと引っ越してきた。

母のフローラはウォルトの新しいアニメ事業を応援してくれたが、父のイライアスは「あまり調子に乗るな」と釘を差し、ウォルトの名声を認めようとはしなかった。

1922年、ロイは結核のため療養所に入ることになり、他の家族はオレゴン州ポートランドへと引っ越していった。



アニメーションのクリップ集のような作品であった『カンザスシティ春の大掃除』で手応えを掴んだウォルトは本格的な短編アニメーションを作ることにした。

題材には『赤ずきん』を選び、4人で6ヶ月掛けて作品を仕上げた。

その出来栄えに満足したウォルトは20歳で昼の仕事を辞め、現代版おとぎ話のアニメーションを制作するために、会社を設立することに決めた。

1922年5月23日、カンザスシティのビルに2部屋を借りて正式にラフォグラム社を設立した。

ラフォグラム社は赤ちゃんの撮影サービスなどもこなしながら、1.11万ドルでアニメ6話分の受注を受けたが、配給会社に逃げられ100ドルしかもらえないといった苦難の道を歩んでいた。

12月には地元の歯科医師トマス・マクラムに頼まれ、『トミー・タッカーの歯』という歯科衛生広告のアニメーション映画を制作し、なんとか500ドルの収入を得るのがやっとであった。

ウォルトは一発逆転の博打を打とうと、「画期的な表現方法を思いついた」と多くの配給会社にハッタリの電報を送った。

ウォルトは『トミー・タッカーの歯』の売上を注ぎ込み、人間の女の子がアニメーションの世界の動物たちと触れ合う『アリスと不思議の国』という合成作品をほぼ一人で手掛けた。

アリス役はヴァージニア・デイヴィスという女の子が務め、実写のシーンは彼女の母親の実家で撮影した。

アリスは救世主とはならず、1923年の夏にはラフォグラム社の破産手続きが始まることとなった。

初めての挫折を経験したウォルトはカメラを売り、スーツケースに着替えのシャツを2枚と絵描き道具、そして作りかけのアリスのフィルムを詰めてユニオン駅へと向かった。

そしてサンタフェ鉄道の1等の切符を買い、単身ロサンゼルスのハリウッドへと向かうのであった。



<つづく>


登場人物

ウォルト・ディズニー
第一次世界大戦の救急部隊に参加した青年。
帰国後、アニメーションの勉強を開始する。

◆ロイ・ディズニー
ウォルト・ディズニーの8歳年上の兄。
ウォルトに商業デザイナーの会社を紹介する。

◆アブ・アイワーク
ウォルトが勤務先で出会った天才アニメーター。
ウォルトと組んでアニメ事業を開始する。

◆フローラ・ディズニー
ウォルトとロイの母。
息子の新事業を陰ながら応援する。

◆イライアス・ディズニー
ウォルトとロイの父。
息子の事業を厳しい目で評価する。

◆トマス・マクラム
ウォルトにアニメーション制作を依頼した歯科医師

◆ミルトン・フェルド
ウォルトの地元のニューマン劇場の支配人。

◆ヴァージニア・デイヴィス
ウォルトの作品『アリス・コメディ』でアリスを演じる少女。


史実への招待

1923年、ウォルトの二番目の事業であるラフォグラム社は現代版おとぎ話をカートゥーンという形で人気を博しました。

しかし、会社の経営となると話は難しく、最終的には発注元が支払いをしないまま倒産してしまうというトラブルに見舞われることとなります。

その結果、ウォルトやアブらのチームは解散。

ウォルトは未完成のフィルムと少しばかりの現金を持って単身ハリウッドに乗り込むことを決意します。

それから90年後、その時のウォルトの姿をモチーフにした像が2013年に東京ディズニーシーに設置されました。

これは東京ディズニーリゾート30周年の記念に本家ディズニーから寄贈されたものであり、2012年にディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーに設置されたものと同様のモデルで、2016年には上海ディズニーランドにも設置されています。

21歳の若き日のウォルトのスーツケースにはラフォグラムの文字も刻まれています。

ハリウッドへと向かう弱冠21歳のウォルトの像は彼の没後に開園した3箇所で見ることができるわけです。

新しい世界に飛び出した彼にとっては、これらのパークもまだ旅の途中なのかもしれません。