ディズニー データベース 別館

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『トイ・ストーリー4』相手を思いやり歩み寄る物語

2022年6月24日、金曜ロードショーで『トイ・ストーリー4』が地上波放送されました。


トイ・ストーリー』(1995年)、『トイ・ストーリー2』(1999年)から11年後に公開され完璧な完結編と評された『トイ・ストーリー3』(2010年)。その2年後を描いたのが『トイ・ストーリー4』(2019年)です。『4』は感動のクライマックスだった『3』の続編ということもあり、発表の瞬間から大きな話題となりました。


日本のファンからは賛否両論だったこともあり、なんとなく近づきがたくて今日初めてご覧になった方もいるでしょう。感受性は人それぞれですし、こうした大きなネガティブな声に惑わされて映画との出会いの機会を失ってしまうのはもったいないことです。映画を鑑賞してどう感じるかはあなた次第なのですから。


今宵は『4』を初めて見たよという方に向けて、『4』を振り返る記事をご用意しました。感動して涙を流した方も、モヤモヤが残ったという方も、『4』との出会いが実りあるものになりますように。


※『トイ・ストーリー』シリーズ全作品のネタバレを含みます。


価値観のアップデート

トイ・ストーリー4』の全体的なテーマに価値観のアップデートがあります。『トイ・ストーリー』『トイ・ストーリー2』『トイ・ストーリー3』において、ウッディは「おもちゃは子供のためにあるべきだ」という主義を一貫して抱えています。


『1』では、ウッディのもとに自分を本物のスペース・レンジャーだと思い込むおもちゃのバズがやってきます。ウッディは「お前はただのおもちゃだ」と指摘します。しかし、いざバズが真実を知り自身を喪失するとウッディは「お前はただのおもちゃだが、アンディにとっては特別だ」と励まします。ウッディの「おもちゃは子供のためにあるべき」という考え方は一作目から提示されていました。


『2』では、ウッディが持ち主不在のおもちゃたちと出会います。ウッディは彼らに寄り添い、捨てられずに生き続けることができるコレクター品として生きることを決意します。バズはウッディへの説得として「君はコレクター品ではなく、アンディにとって特別なおもちゃだ。」と『1』でのウッディの言葉をそのまま返します。


『3』では、大学生になったアンディが子供部屋を引き払うことになり、ウッディだけを大学の寮へ連れていき、他のおもちゃは実家の屋根裏部屋にしまうことにしました。他のおもちゃたちも基本的にはウッディと同じ考えでアンディの決定を尊重しますが、捨てられると勘違いしたため脱出を図ります。結局、アンディはおもちゃを保管せずに近所の女の子ボニーにすべて譲ることを決断します。


『4』ではこの「おもちゃは子供のためにあるべきだ」という価値観の見直しが行われています。新しい価値観は衝撃を与えるものでしたが、その新しい価値観は既存の価値観を否定する意図ではなく、むしろ既存の価値観を持つ人々を支援する形で新しい道を提示するものになっています。


本作のウッディは「おもちゃは子供のために」というアンディ時代の信条を引き続き掲げ、「ボニーの家」という新しい環境で次の子育てに従事しようとします。しかし、ウッディは新環境ではおもちゃたちのリーダーではなく、ボニーには見向きもされず、アンディの家の頃とは勝手が違いました。ウッディは表面上ボニーのおもちゃとしては用済みなのですが、その役割を全うする手段としてボニーが大事にしている自作のおもちゃ「フォーキー」を守ることでボニーに貢献しようとするも苦戦します。遊んでもらえないウッディはあくまでフォーキーを守るという役割に拘り、バズに交代を申し出られた時も断っています。


ウッディは旅行先で「迷子のおもちゃ」となったボー・ピープと再会し、「おもちゃは子供部屋に拘る必要はない」という彼女の価値観に触れることとなります。『3』までの価値観に縛られているウッディは「フォーキーを守って持ち主のボニーのもとへ帰る」という主張を手離そうとしません。遂にはボーに「それはボニーのためではなく、自分のためでしょう?」と見透かされてしまいます。


そんな彼にきっかけを与えたのはギャビー・ギャビーでした。彼女は「おもちゃは子供のために」という『3』までのウッディと同じ価値観を持っており、彼が当たり前のように感じていた生活に強い憧れを抱いていましたが、理想の女の子ハーモニーに拒絶されてしまいました。「あの子じゃなきゃダメなんだ」というウッディと同じ価値観に縛られているギャビーに対し、ボーから学んだ「子供は他にもたくさんいる」という言葉を引用し、新たな価値観を認めて励ましたのです。


それはアンディやボニーに固執していたウッディ自身の認識を改めるきっかけとなり、ボーの「おもちゃは子供部屋に拘る必要はない」という主張にも理解を示していくこととなりました。

迷子のおもちゃ

『2』『3』では、所有者不在の「迷子のおもちゃ」は可哀想な存在として捉えられており、彼らが価値観をこじらせてヴィランとなっていました。『4』でウッディがボーと再会した時、迷子のおもちゃとなったボーの境遇を知ったウッディが「ひどい……」と呟きます。また、『4』ではレックスやジェシーが「迷子」をかわいそうな子というニュアンスで使っています。彼らは冒頭のウッディと同様に「迷子は不憫だ」という前提のもとに物事を判断しています。


一方、ボーは「迷子」という言葉を「人生の迷子」というニュアンスで使用しています。『4』のラストでレックスが「ウッディは迷子のおもちゃになってしまったの……?」と訊ね、バズが「彼はもう迷子ではない」と答えます。レックスは『4』のウッディの経験を経ていないので相変わらず「迷子はかわいそう……」という前提で話していますが、バズはボーの生き方を尊重して回答しています。

『3』はアンディの成長の物語

『4』の視聴後、「『3』のラストシーンで味わった感動を台無しにされた」と感じる方もいるでしょう。これは「アンディがボニーを信じて大切なおもちゃを託したのに、ボニーはウッディを蔑ろにしている」という描写への不満でしょう。「アンディがかわいそう」という感想はまだ分かるのですが、「こんなことならアンディはおもちゃを手放してほしくなかった」というコメントには違和感を覚えます。


ここで改めて『3』を振り返ってみましょう。『3』のアンディは既におもちゃで遊ばなくなって数年経過しており、大人の階段の真っ只中にいます。『ピーター・パン』ではウェンディが大人になるということを「子供部屋からの卒業」という形で表現していますが、アンディの場合は「子供部屋からの卒業」に加えて「おもちゃとの別れ」という形で描いています。大学へ進学するアンディにはおもちゃについて4つの選択肢が与えられています。「捨てる」「譲る」「屋根裏にしまう」「大学へ持っていく」の4つです。


「大学へ持っていく」はアンディがおもちゃから離れられない、すなわち成長の放棄を意味します。一方、「捨てる」「譲る」はおもちゃからの脱却という表現でアンディの成長を描いています。おもちゃと決別して大人になったアンディはおもちゃと切り離して考えられる存在なのです。もちろんアンディとしてはウッディを大事にしてほしいと願ってはいたでしょうが、ボニーに所有権が移った以降アンディの希望はお気持ちでしかなく、ウッディの幸せに介入する余地はなくなったのです。では「屋根裏にしまう」という行為はOKなのでしょうか?おもちゃとしての所有権は継続されますし、気が向いた時に眺めることができるので「実用性」という点では良いでしょう。しかし、テーマ的観点としてはおもちゃからの脱却という選択肢を一旦保留にしただけであり、アンディのモラトリアムとなってしまいます。


『ピーター・パン』でいうと、ウェンディが「子供部屋からの卒業をあと一ヶ月待ってくれ!」と言って終わるようなものです。ウェンディは子供部屋からの卒業に自ら応じたことでハッピーエンドとなるのであり、卒業を保留にしたりネバーランドで子供のまま楽しく暮らすのではハッピーエンドになり得ないのです。


以上を踏まえると「アンディにおもちゃを手放してほしくなかった」というコメントは、『3』の本質を否定しているように聞こえてしまいます。映画の登場人物は実用性の最大効率を求めるわけではないのです。

『3』はウッディのモラトリアム

シリーズでも名作と名高い『2』と『3』にはテーマ上のある共通点があります。どちらも問題を先延ばしにしているのです。


『2』では悪役の「アンディは大学や新婚旅行へ君を連れていくか?」という主張に対して、「アンディの成長を止めることはできない。今を目一杯楽しむだけだ。」というウッディなりの回答を提示しています。これは限りある時間を楽しむ前向きなメッセージであると同時に、捨てられる心配については保留にしていると見られます。


その問題に答えたのが『3』です。『3』ではアンディの成長を認め、おもちゃたちは次の家へ貰われていきました。おもちゃにとっても一見ハッピーエンドですが、アンディからボニーに変わっただけでまた数年後には同じ心配を繰り返すことになります。『2』で提示された「アンディに捨てられるかも…」というミクロな心配が「持ち主に捨てられるかも…」というマクロな心配に転換されただけとも見えるでしょう。


『3』が私たちの心に強く響いたのは、『3』のテーマがアンディの視点で投影しやすいものだからではないでしょうか。『3』はアンディがウッディに別れを告げる物語であり、ウッディはアンディとの別れにおいて決定的な判断は下していないのです。


実際、『3』でお互い前向きに別れを告げたように見えて、ウッディのほうにはまだ心残りがあったのです。このアンディへの依存(呪縛)が『4』のウッディの欠点(既存の価値観への執着)となっています。そしてこの呪縛は『3』までのアンディとウッディの絆に愛着を持ちすぎたファンにとっても色濃く残ってしまいます。

『4』はウッディとアンディの最終章でもある

『4』はウッディの物語なので、アンディの成長に焦点を当てた『3』とはそもそもの視点が異なります。それゆえ感動の大きかった『3』の視点でそのまま『4』を見た際に面食らったという人が結構いたのではないでしょうか。


製造不良のため子供に遊んでもらえず半世紀を過ごしたギャビーに手を差し伸べるまで、ウッディにとってアンディの部屋で培ってきた価値観が絶対的でした。ボーに諌められた際に「もう俺にはこれしかないんだよ!」と叫んでいます。自分がボニーのために尽くさなくてはいけないのは、アンディとの生活で培った価値観であり、アンディがボニーに自分を与えることを望んだから。『3』をアンディの視点で見届けた視聴者にとってウッディの依存は共感を覚えるのです。


ちなみにウッディが今なおアンディにしがみついているという伏線は映画全体を通して描かれています。ウッディがアンディとの経験を語った際には「ボニーとアンディは違う」とドーリーに指摘されました。真っ暗なRV車の中でバズと語らう際、「アンディの時はこんなに大変じゃなかった」と話しています。また、ウッディはフォーキーと二人きりで夜道を歩いている際にボニーとアンディを言い間違える場面もありました。フォーキーがギャビーにウッディの話をする際にも「アンディのことをまだ引きずってる」と話すコミカルなシーンもあります。このフォーキーによるイジりは決してコメディなだけでなく、ウッディが抱えている悩みの本質でもあるのです。


ウッディはアンディのおもちゃとしての役割を終えたことを自覚し、新たな道を見据えた時、ボニーのおもちゃとしての役割を保安官バッジに託してジェシーたちに引き継ぎ、新しい世界へ飛び出していきました。


リメンバー・ミー』では「人は二度死ぬ」という概念が語られます。一度目は死亡した時。二度目は生きている人間に存在を忘れ去られた時でした。それに似た感覚で、子供とおもちゃの別れという概念も複数のタイミングから成り立っているのだと思います。『3』では遊ばれなくなった時、持ち主が手放した時が描かれます。そして『4』ではおもちゃが別れを受容して自由になった時が描かれました。『4』はあくまでフィクションでしか成立しない概念ではありますが、ウッディがアンディから卒業できた時。


シリーズとしての一貫性に欠けると批判されることもある『4』のテーマですが、環境の変化に応じて凝り固まった価値観を是正していく(=ボーの価値観を認め、アンディへの過度な依存から卒業する)ウッディの成長は、過去作からの一貫性がないからこそ描くことのできたテーマであると言えるでしょう。このピクサーらしいチャレンジングな姿勢を受容できるかどうかが『4』のテーマへの好みが分かれるところかと思います。

バズもボーも成長している

2010年代後半はディズニー映画においても女性活躍の凄まじい時代でした。『1』『2』では文字通り置物のようなアイコンであったボーが大活躍します。ボーはウッディに新たな価値観を与える先輩として彼を導き、時に諫めます。ボーは一度自分勝手なウッディを見放しますが、ギグルとの問答の結果、今のウッディの愛すべきところを思い出して彼のもとへ戻ります。


「価値観のアップデート」の素晴らしいところは新たな価値観を認めることにあります。ウッディは既存の価値観に固執するという欠点を持っていますが、既存の価値観に縛られるウッディを「困った奴だ」と決めつけるボーの振る舞いもまた相手の価値観の否定となってしまうのです。ボーは現在の価値観に安心と誇りを持っていますが、かと言ってウッディの価値観を否定して良い理由にはならないのです。偶然にも『4』でウッディとボーがお互いの価値観を認めたのは同じタイミングであり、お互いの価値観を認めているからこそウッディとボーの別れが感傷的になるのです。


ウッディとボーの価値観の相違は7年間も離れて生活していたことで生まれました。一方、長年ウッディの一番近くにいたバズは『4』の冒険でウッディがボーの価値観を認めたことをすんなりと受け容れることができました。バズがウッディを送り出した言葉は「ボニーのことは私たちに任せて、君は自分が選んだ道を行きなさい」なんて丁寧なものではなく、「ボニーは大丈夫だ。」という簡潔な一言でした。「ウッディとバズの別れがあっさりしすぎてて泣けなかった」という人もいると思いますが、逆にウッディを熟知したバズだからこそのあっさり感に涙してしまうという説を推したいです。


『4』の決定的な欠点

新たなテーマに挑んだ『4』ですが、全体的に主人公のウッディの行動の動機の描写の伝わりづらさを感じます。


たとえば冒頭でウッディが遊んでもらえない描写はありますが、キャンプの道中では遊んでもらっています(プリックルパンツやエイリアンはキャンプ自体不参加)。アンディ時代ほどではないにしろ「そこまで絶望的か?」と思ってしまうような描写であり、ウッディが衝撃の決断を下すには弱いのではないかと感じてしまうところがあります。ただウッディを絶望的に描けば描くほど、その要因であるボニーが悪者になってしまうので製作陣としてはその塩梅が難しかったのかもしれません(後述)。どちらにせよ『3』のアンディ視点のエンディングと『4』のウッディのテーマでは両立し得ない難しさがあると感じます。


ウッディの最後の決断に至った経緯もやや伝わりにくいと感じます。終盤、ウッディはギャビーを励ますにあたりボーの価値観を認め、ボニーや仲間のもとを離れる決断をします。ウッディとしては

「ボニーに飽きられて自分の存在意義について葛藤していたところ、ボーと再会し彼女の新たな価値観を理解できた。俺の価値観はアンディ時代に培われたもので、ボニーと俺との関係性でもそれが正とは限らない。であればボニーのお気に入りのジェシーに今までの役割を任せ、ボーと共にギャビーのように俺の既存の価値観を理想とするおもちゃと彼らの未来の持ち主である子供たちの手伝いをしたい。」

………ぐらいの心境の変化があったと思いますが、価値観の変化から別れの決断までがとんとん拍子で進むこともあり、

「ボニーに飽きられて居心地悪いし、ボーと仲直りできたし、彼女のもとに行っちゃお!ひやっほう!!!」

という風に見えてしまった視聴者も多いかもしれません。


『4』の犠牲となった者たち

ストーリーありきでファンに愛されてきたキャラクターが動かされているような違和感がシナリオ全体に漂っています。内なる声(ランダム音声再生機能)に振り回される不思議ちゃんなバズや、7年前の時点でモリーのもとを離れる前から既にめちゃくちゃアクティブなボー・ピープ、物語をかき乱さないためか全く絡んでこない同僚のおもちゃたち、そして我らがボニー・アンダーソン………。ウッディは欠点を克服する主人公の立場なのでさほど改悪とは感じませんでしたが、彼のファンにとってはかっこいい主人公が「老害」のように描かれるのは面白くなかったことでしょう。


ボニーについてはプロット変更による犠牲となった点が拭えません。本作に限らず、ピクサーは長い時間をかけて脚本を練り上げていく上で、当初想定していたテーマと全く違う物語になることがしばしばあります。『4』はシリーズの生みの親であるジョン・ラセターの退任劇と重なったこともありプロット変更による影響が大きかったようです。本来の『4』では、ボニーがウッディに飽きたところから始まり、ラストシーンでウッディと和解することでボニーの成長が描写される予定でした。しかし度重なるプロット変更により、物語の入口となる「ウッディに飽きるボニーの要素だけが残される結果となってしまったのです。


なお、ボニーの描写については、視聴者が子育てを経たかどうかで印象も変わるようです。製作陣の意図としてはボニーを特別薄情な子ではなく、どこにでもいる普通の子として描きたかったのだと推察されます。普通の子とはここではボーの言う「毎日のようにおもちゃをなくす子供」のことです。『4』の回想エピソードでおもちゃを大切にするアンディですらRCを置き忘れてしまう普通の子として描かれています。フォーキーの不在には気付くのにウッディには気付かないボニーと、ウッディの不在には気付くのにRCには気付かないアンディ。アンディもボニーも同じだということで彼女をフォローしたかったようにも見えますが、それにしてはシリーズの視聴者にアンディが神聖視されすぎていたのかもしれません。次の項に続きます。


『4』で描いたテーマの重荷

『4』について「映画としては面白かったけどナンバリング外でやってほしかった」「トイ・ストーリー以外でやってほしかった」という感想を持った方はいませんか。「価値観のアップデート」の項で振り返ったとおり、『トイ・ストーリー』シリーズは基本的なテーマを掲げながらも、過去作の問題提起を次作で回収するケースもあります。


持ち主のいないおもちゃについては過去作でもたびたび設定として触れられてきたところです。『3』までに登場したおもちゃたちは、所有されて遊んだり飾ったりされることに価値を感じており、無くされたり捨てられたり倉庫に置き去りにされることは不幸だと捉えていました。それはウッディやジェシーのような善人でもプロスペクターやロッツォのような悪人でも同じです。そんな彼らに新たな生きる意味を提示した本作は、『3』までの「おもちゃは人間に動いてるところを観られちゃダメなんでしょ。で、捨てられるのが怖いんでしょ。ハイハイ。」なおもちゃの価値観に支配されてきた視聴者や製作陣にとって大きなギャップを感じさせる上でも、意義のあるテーマだったと思います。ただそのテーマを描く上で既存のキャラクターたちの動きや描写が不完全燃焼だったように見えます。


既存キャラについてはちょっと残念なところもありましたが、新規キャラのヴィランについては本シリーズでやることの意味が感じられました。辛い過去を背負って『2』のプロスペクターや『3』のロッツォはヴィランとなりました。ギャビーはどうだったでしょうか。ハーモニーはウッディを欲しがったのに、同じウッディのボイス・ボックスを持っている自分のことは欲しがってくれない。「自分が愛されないのはボイス・ボックスが故障しているからだ」という思い込みを否定されて逃げ道を失い、ウッディへの憎悪を燃やして同じくヴィランになり得る瞬間はありました。しかしギャビーはロッツォと違い、ウッディの差し伸べた手を掴みました。それは彼女もウッディと同じく相手の価値観を受け容れて歩み寄る器がある子だったから。この『3』のロッツォで描かれた選ばれなかったおもちゃへのアンサーが上手く回収されているのが『4』が『4』である大きな必要性だったのではないでしょうか。


以上を踏まえて、『4』の物語は完全新作の映画としてやるより、『トイ・ストーリー』シリーズでやるからこそ意味のある物語だったと思います。その一方で、このシナリオをやるには『トイ・ストーリー』が多くのファンに支持されて偉大な存在になりすぎていたように感じました。


さいごに

トイ・ストーリー4』は最近のディズニー/ピクサーで連発された「既存の枠組みの見直し」「新たな価値観へのアップデート」といったテーマが『トイ・ストーリー』という大人気シリーズで描かれた作品となりました。『1』から24年を経た美しい映像や歴代シリーズの音楽を含めた演出は素晴らしく、世界中で高く評価されています。ただ、テーマが先行してキャラクターに違和感を持った人もいたかと思います。もしも続編が製作される際には、革新的なテーマに挑みながらも既存キャラクターのファンに寄り添った気配りがあると嬉しく思います。


実際、『4』には長所も短所もあると思います。その感想がポジティブなものであれネガティブなものであれ、シリーズを通して視聴して育まれたあなた自身の感情なので大切にしてほしいと思います。ただ、くれぐれもその声を発信する際には周りにその価値観を押し付けないようにしたいですね。自分の価値観を尊重しつつ互いを認め合うことこそが『4』の温かい世界なのですから。