※この物語は事実をモチーフにしたフィクションです。
私には仔ネズミの頃の記憶はない。
はっきりとした最古の記憶は1928年のある列車の中で暗闇を這いずり回っていた時のことである。
列車に飛び乗った瞬間の記憶はなく、ただ夢から覚めると列車の中を歩き回っていたのである。
そもそも歩き回っている場所がガタンゴトンと音を立てていたから列車の中にいるのだろうと勘付いてはいたが、実際に列車の中にいるとわかるまでには多少の時間を要した。
歩き疲れた私は食べ物を捜していた。
さっきまでの私が何者だったのかは記憶にないが、今の私はネズミのようだ。
多少なら落ちているものを食べてもお腹を壊すはずはないだろう。
私はへとへとになりながらも根気よく歩いた。
そんな時、一筋の光、もとい一粒の豆が落ちてきた。
私は最後の力を振り絞って豆に飛びついた。それと同時に人間の男性が豆に手を伸ばしかけ、少し驚いた様子でこっちを見ていた。
が、私はそれにも気付かず、がっついていた。
「お腹が空いているのかい。まぁ、落ちたものを私が食べるわけにもいかないし、落ち着いてお上がりよ」
彼は笑った。
「あぁ、すまないね。恩に着るよ。」
私は答えた。
すると、彼はくりっとした目をさらに丸くしてこっちを驚いた様子で見ていた。
人間とネズミが会話を交わすという異様なシチュエーションをようやく理解した私は彼の顔を二度見した。
「や、やぁ…」
男はこちらを見て、「君、今言葉を喋ったね?それに私の言葉がわかるんだね?」と訊ねた。
「あ、えーと、そのようだね、ウォルト。」
私は咄嗟にそう答えた。
彼は今度は目の前のネズミが自分の名前を知っていることに驚いた。
「あぁ!」
ウォルトは突然、納得したように頷いた。
「私の名前を知っているということは、君はつまり、私の頭の中の幻なんだね?」
「幻だって?」
「私は今ハリウッドからの帰りなんだが、なかなか上手く行かなくてね。きっと疲れ切っているんだ。だから君みたいな喋るネズミの幻が見えているんだよ。そうに違いないな。」
ウォルトはどうやら私を幻と思っているようだった。
かといって、私が自分はネズミだと理解したのもついさっきのことだったし、私は現実だよと自信を持って主張する根拠もなかったわけである。
「ということは、私が今何に悩んでいるかも知っているわけだね?」
ウォルトは昔から馴染みの兄弟でも見るかのような親しげな目でこちらを見た。
もっとも、彼は私を自分自身の幻だと思っているのであながち間違えてもいないわけだが。
しかし、彼の提案は正しく、私はなぜかウォルトの名前だけでなく彼の境遇も当てずっぽうで的中させてしまったのである。
オズワルドの契約更改のためにハリウッドに行き、そこで信頼していたアニメーターを引き抜かれたこと。
そして、契約のために彼らとオズワルドを残り3本作らなくてはならないこと。
ウォルトと私が語らっていると、同時に列車に向かって突風が吹き荒れた。
風向きが大きく変わり、近くの民家の風見鶏が一斉に同じ方向を向いた。
見えたわけではないが、私にはその風がウォルトを中心に吹いているように感じられた。
「さっそくユニオン駅に戻ったら、アブと今度のことを話し合わなくてはならないんだ。アブっていうのは……、君なら言わなくても知ってるんだろうね」
風が止むとウォルトはそう言ったので、私はこう訊ねた。
「アブっていうのは、誰だい?」
先程の風をきっかけに、私の勘は一切働かなくなっていた。
ウォルトと私はお互いにキョトンとした目で見合っていた。
さっきの大きな風は何かの啓示だったのか。
次に風向きが変わる時、私には何かが起きるのだろうか。
この不思議な現象を当時の私には知る由もなかったのだが、ともかくこれが私とウォルトの最初の出会いであった。
<つづく>
史実への招待
ウォルト・ディズニーは1901年12月5日、イリノイ州シカゴで生まれました。
大工の父イライアス・ディズニーと母フローラの間に生まれた5人の子供の4番目でした。
ウォルトは8歳年上の兄ロイの後をいつもついて歩いていました。
4~5歳の頃、一家はミズーリ州マーセリンの農場に引っ越し、そこでウォルトはたくさんの動物と触れ合って過ごしました。
農場でウォルトが過ごしたのは三年ほどですが、彼にとっての輝かしい思い出となりました。
彼がアニメーションで表現したかった美しい田園の風景には、幼い日のマーセリンの光景もあったのではと言われています。
初期のアニメーションや実写映画を鑑賞する際には、ウォルトの見ていた風景に思いを馳せてみるのも良いかもしれません。